◎ 観蔵院両部曼荼羅
染川英輔 1983-2001年 絹本着色 額装 各2300×2100ミリ
曼荼羅描き始め法要
(昭和58年)
西陣の織元、廣瀬敏雄氏による
絵絹の手織り作業
(昭和62年)
金剛界曼荼羅の彩色に取組む染川英輔
(平成4年)
観蔵院両部曼荼羅の特徴
平安時代、弘法大師が唐より請来した曼荼羅が、日本にもたらされた最初の曼荼羅です。爾来日本において、数多くの両部曼荼羅が密教寺院の根本尊像として描かれてきました。しかしそれらの多くは、弘法大師の請来本より模写を重ねられた曼荼羅でした。曼荼羅は元来、経典の記述に沿って描かれたものです。経典は如来の教説を記したものであり、多くの修行者の宗教体験に基づいて編纂されてきた以上、 経典の記述はないがしろにできません。
染川英輔の描いた観蔵院曼荼羅の制作はまず、『金剛頂経』や『大日経』といった経典・儀軌等に記述されている尊様や配置を改めて仏教研究者とともに研究す ることから始まりました。そしてその研究に基づいて、新たに4年がかりで下絵を描き起しました。
さらに観蔵院両部曼荼羅を描いた絵絹は、八尺幅というその稀有な大きさゆえに、織り機の製作をも要しました。一枚ものの絵絹としては、日本最大級の大きさです。
綿密な研究に裏打ちされつつ揺るぎない筆致で描かれた白描図が岩絵具で丹念に彩色され、細部まで精緻な截金を施されて両部の曼荼羅が形を与えられるまで、昭和58年以来、実に18年もの歳月が費やされました。
両部曼荼羅とは
金剛界・胎蔵の両部曼荼羅は、真言密教の教義内容を図画によって教示しており、表裏一体で相即不離の関係にあります。金剛界曼荼羅は「智の曼荼羅」と称され、『金剛頂経』に基づき、大日如来の金剛不壊なる悟りの智慧の働きを示しています。ま た、胎蔵曼荼羅は「理の曼荼羅」と称され、『大日経』に基づき、大日如来の悟りが展開している理を示しています。