観蔵院の歴史
当山は慈雲山曼荼羅寺観蔵院と称し、大聖不動明王を本尊とし、真言宗智山派に所属する。観蔵院の創建の年月は明確ではない。しかしわずかに残る資料『新編 武蔵風土記稿』には「寳蔵院・新義真言宗上石神井三寳寺門徒、慈雲山と号す」とあり、さらに「稲荷社は村の鎮守なり。寳蔵院持」との記述がある。この資料 には寳蔵院と記されているが、三寳寺末でほかに寳蔵院に相当する寺がないことから、これが観蔵院であり、稲荷神社を統括していたことが知られる。文明9年 に太田道潅は、豊島城を本城とし、このあたりに君臨する豪族の豊島氏を滅ぼした。そして豊島氏の出城であった石神井城の跡へ、三寳寺を移転したのである。 その折、三寳寺の塔頭であった観蔵院を、この南田中の地へ移築し末寺としたといわれる。時に文明9年(1477)4月のころである。
昭和20年ごろの観蔵院の様子(小宮盛海筆)
昭和20年ごろの観蔵院の様子(小宮盛海筆)
本堂につづいて建てられている薬師堂は、もとは観蔵院とは別の場所にあって村人の信仰を集めていたものを、時代は不明であるが観蔵院境内に移転したものといわれる。安置されている薬師如来は「日の出薬師」と通称され、現在でも近隣の人たちに篤い信仰を集めている。
現在の本堂は弘法大師1150年御遠忌記念に建立したもので、昭和60年4月2日に落成した。薬師堂及び客殿は、興教大師850年御遠忌に際し報恩のため に新築したもので、平成4年10月25日に落成したものである。このときこれまでの本尊薬師如来は秘仏とし、岩松拾文師作の薬師瑠璃光如来を前立ちとして 安置した。通用門・美術館・本坊寺務所・庫裡は「宗団設立100年・智積院再興400年・頼瑜僧正700年御遠忌・玄宥僧正400年御遠忌」の事項を記念 して建立したもので、平成14年11月1日に落慶を迎えた。
曼荼羅の寺
真言宗は曼荼羅宗とも別称される。その理由は、「曼荼羅」は真言宗の確証を図絵として表現したものだからである。また曼荼羅は真言宗徒にとって最も重要な 儀式である灌頂を行うときに、無くてはならない重要なものなのである。それゆえ弘法大師は身の危険を省みず唐へ渡り、青龍寺の恵果和尚より許可をいただき 「金剛界曼荼羅」「胎蔵曼荼羅」の両部曼荼羅を請来したのである。
一口に曼荼羅といっても、いざ制作するとなると内容はもちろんのこと時間的・経済的・技術的なさまざまな問題があり、容易ではない。そのため日本で古くから曼荼羅がある寺は、本寺あるいはそれに準じた寺のみで、一般の寺には祀ることができなかった。
曼荼羅に登場する動物たち
観蔵院という寺院名の由来
観蔵院の「蔵」は、いいかえれば「三蔵」のことである。「三蔵」とは「経蔵」、「律蔵」、「論蔵」の三つを指した言葉で、玄奘三蔵(三蔵法師)はこの三つ に通達していたがゆえに三蔵と称された。「経蔵」とは仏教の教えが記されたお経の蔵のことで、「律蔵」は仏教を信ずる者が正しく実践するための戒律などの 約束事を記した蔵、そして「論蔵」は、そのお経を正しく解釈したもので、いわば哲学書の蔵である。
観蔵院の「観」は、これら三蔵を観察する、あるいは見通すという意味になる。要は、経・律・論の真意を正しく理解して見定めることである。いかに素晴らし い教えでも、真意を取り違えてしまえばその意義は失われる。自分勝手な解釈をや判断をするのではなく、一切の生きとし生いけるものの立場からの理解が肝要 である。観蔵院という名には、そういった思いが込められている。
金剛界曼荼羅(部分・賢劫千仏)
当山で曼荼羅を制作する要因となったのは、時代的な要因に加え新本堂を新築する計画があり、さらには染川英輔画伯と遭遇する勝縁を得たことである。もちろん檀信徒の熱意が後押しとなっていることは言うまでもない。
観蔵院曼荼羅の特徴は、伝統的な曼荼羅を模写するのではなく、経典や儀軌の記述を尊重し、これに基づいていることである。染川画伯は住職の意志を汲み、経 典や儀軌にそって下絵のデッサンから描き起こした。8尺幅という大きな絵絹を織り、その絵絹に下図を描き起こし、その上に丹念に岩絵の具を塗り、細部まで 截金を施した。その間、絵の具や截金によって消えた線を何度も描き改め、仏画本来の技術を駆使し一切の妥協をせず取り組んだ末、12年の歳月を費やし平成 7年11月に金剛界曼荼羅が完成した。胎蔵曼荼羅も引き続き制作に取りかかり、平成13年11月に描きあげた。18年の歳月をかけ、ついに両部の曼荼羅が 成就したのである。